60歳定年退職男の「リタイア」日記

徒然なるままに「リタイア後」の現実を綴ります。

定年にいたる回顧録Ⅱ(リストラの果てに)

昨年12月、私の直属の上司であるN社長が解任された。

(正式な解任日時は2024年2月)

 

解任劇は外資系企業には一般的な風景なのかもしれない。すでに私は2006年に同じく社長の解任劇を傍でみて経験していた。2007年冬には大量7人の社員の粛清(会社都合解雇)があった。ホテルの大会場に集められて実施されたこの惨劇はあまりにも衝撃的であった。一般社員までもが、業績改善と人事改革の名のもとに葬りさられた。

それからもリストラは断続的に行われた。2010年夏には5名の早期退職募集、2017年秋にも5名がほぼ指名解雇のような体で離職に至らしめた。

その都度、全社員のだいたい1割程度削減された。

 

それでも、私は良くも悪くもしぶとく生き残った。

 

そして、遂に昨年2023年夏頃には部長4人中2名が解雇されるに至った。

同じ昭和39年生まれ組で、私の盟友である部長も切られた。

また、そういう出来事を近くでみていた社員の何人かは課長級社員も含めて自己都合で会社を去っていった。

 

古参であるわたしは、存命はしたもののこの時点で心身がズタボロになっていた。また仕事に対する熱意も消え失せようとしていた。

 

さらにそれに追い討ちをかけるような出来事が起こった。

 

私は昨年10月末にTEAMS会議へN社長に呼び出されたのだ。

その内容は、名古屋直下の部下が辞表を提出したことに対して、尋問のためか徴集されたのである。
私は説明をしながらも若干呆れていた。これだけの粛清劇をみれば誰でも転職を考えるであろう。まして年齢が若ければ若いほどその決断は早いと思われるからだ。

 

とはいっても運が悪ければ、私も何らかの不手際を指摘されターゲットにさせられたかもしれない。

 

ただ私は立場上、海外グループ内に多少なりとも後ろ盾的ルートをもっていた。私を切るには相応の理由が必要であったと思う。私は軽く腹を括ったが、11月にはN社長自らが解任の憂き目を見ることになるので私の話は雲散霧消した。

しかし助かったとは思っていない。益々私は追い詰められていくことになる。

 

 

さてでは、一体なにが、組織をリストラというべき挙動に駆り立てていくのであろうか?

やはり組織のトップとして業績をあげなければならない相当な焦りがそうさせるのであろうか。

 

結果がすべての世界であることは承知している。

日本ではこの観念は僅少だが、海外では資本主義である以上株主のために働いている論理展開が息づく。結果(プロフィット)を出せないマネジャーは株主としては不要のなのである。だから、組織のトップは業績が下がり続けると結果を求めて深刻になる。そしては、その経過のさなかで黒字収益化するために、感情を捨て去り、人員の削減も厭わなくなるかもしれない。

 

しかし、人員削減が黒字化に対して奏功するのは刹那的で、それで営業業績そのものが向上するわけがない。

 

そして反射的に、人員削減ののちの業務全般は、残った社員のやるせない空気のなかで運営され、社内はどんよりと沈んでしまう。

 

 

ところで、

業績向上は営業部長として最も重要な責務だが、正直な話し、
わたしは定年退職を目前に控えて、人事刷新後の複雑でややこしい業務運営にへきへきとしていた。多少そうした業務運営に迎合して協力的姿勢をみせてはいたが、実際の心境としてはそれらにはあまりにも消極的であったといえる。

 

なお繰り返しになるが、自分の中で営業業績のことは一応取り繕いはするものの、熱意や意欲は減退していたのである。

 

しかし、この期に及んでも自分の職分(地方営業部員として)と営業部長として最低限の職責だけは最後までまっとうしようとした。

「私は私だけの戦いをする」と決めて、自らの堡塁だけを死守することを誓った。

 

外見的には名古屋(地方)の殻の中に閉じ籠るようにみえたかもしれないが、それが精神衛生上ギリギリの思考であった。

 

しかし果たせるかな。N社長の乾坤一擲の人事改革策は見事なまでに徒労に終わった。業績が振るわないまま自身の解任に至るのである。

 

わたしはこうした会社に37年間在籍した。

次回はその栄枯盛衰の軌跡に触れたい。

 

長文にかかわらず、ご一読ありがとうございました。